以前、同じようなことをお話ししたように思うのですが、お互いの言葉や表現の「”解釈”が違っている(「間違い」ではなく)」ことに気づかずにコミュニケーションを続けると、互いに不快感が生じ、いさかいになることがあります。
この差異は、お互いがその言葉や表現をどんなところでどんな風に体験したかによって起こるようです。
例えば、Aさんにとって、暗くて狭いところ・・・押し入れや納戸のようなところは、とても嫌な、怖いところです。幼い頃、親から叱られ罰として閉じ込められたことがあるからです。
ですがBさんにとっては、とても楽しいてワクワクするところです。大好きな祖父母の家の納戸や押し入れで、自由にのびのびと冒険した思い出があるからです。
さて、大雑把になりますが、叱られた(と受け止めた)り恐怖や怒り(を感じた)など自分を傷つけるようなこと、ネガティブな体験として記憶された物事に対しては、不快感を伴う身体感覚(胃がギュッとなる、心臓がどきどきするなど)が”瞬時に”再生されますし、誉められた(と受け止めた)り嬉しかったり喜ばれた(と感じた)などポジティブな体験として記憶されたものに対しては、視界が明るく広くなり、体の力が緩んだり呼吸がしやすくなるなどします。
そして多くのひとは、肉体の不快感を伴うようなことは好みません。
なのでもし、この肉体の不快感を再生させる言動をとった人物に対しては、(自分にとっての)危険人物と判断し、場合によっては攻撃します。
ちょっと前置きが長くなりましたが(笑)、本題に入りますと、個人的に、「責任」ということばに対するこの差異がとても興味深いと感じています。
私にとって「責任」とは「請け負った任務を最後まで果たすこと」で、それ以上でも以下でもありません。
例えば、何らかのプロジェクトの責任者となったとします。
その内容はセミナー開催でも建築物の建立でも壁にペンキを塗ることでも何でもよくて、いったん引き受けたら、それを最後まで遂行できるよう精一杯努めること、というものが私の解釈です。
ですから、何か想定外のことが起きたとしても途中で放り出す・・・辞めるのではなく、セミナーが終了するまで、建築物を建立してしまうまで、ペンキを塗り終えるまで、何らかの創意工夫をして任務を完了させることだと思っています。
なので、想定外のことが起こったことに対して、自分や誰かを責めたてること、自分や誰かの心身に苦痛を与えることではありません。
そして、「自己責任」というものは、今ある状態の責任を自分がとるということになります。
例えば今の自分が置かれている状況に何らかの不満があり、それを改善したいと思うなら、今のその状態を冷静に客観的に把握し、どこをどうしたらいいか考え、実行することです。
といって、誰にも頼らず全部自分だけでやれというものではありません。
むしろその逆で、自分に何ができて何ができないのかとしっかり把握し、できないことはできるひとにお任せすることでもあります。
つまり、自分でできることまでひとさまに依存しないということです。
自分の置かれている状況を、周囲の環境や他者のせいにして嘆いてばかりでは何も変わりません。
また、自分が不満を持っていることに対して、他者も同じく感じているとは限りません。そういう意味で、誰かに何とかしてもらおうと”当てに”しても、おそらく何も変わらないでしょう。
自分が感じた何事かに対しては自分から始める、自分が動く。
これが自己責任であり、かつて自分がとった言動や現状について、自分を責めろとか傷つけろというわけではないのです。