ここ最近のセッションで改めて強く感じたことは、「幸不幸というものは絶対的主観による」ものであり、「外部からはうかがい知れない」ということです。
こちらで何度かお話ししましたが、幸せの基準はひとそれぞれです。
一見幸せそうな生活をしているようでもご本人がそう感じていない・・ご自分のことを不幸せだと思っているのなら、それは幸せではありません。
同じく、傍から見ると苦労続きでたいへんそうな人生を送っているようでも、ご本人がそうは感じてない、それどころかとても満たされて平穏でいるならば、それはとても幸せなときを過ごされているのです。
私たちが過ごしているこの世界では、「幸せ」の「外部」基準が多々あります。
そしてそれは、住んでいる地域や世代によって全く違い、頻繁に変わります。
例えば、ある世代、ある地域にお住まいの方々にとっての幸せ、成功基準は、結婚して所帯を持つことだったり、一軒家に住むことだったり、車を持つことだったり、テレビを始めとした電化製品を持つことだったりするでしょう。
でも、ある世代では物を持たないことが幸せの条件だったり、プライベートなパートナーシップは組んでいても一緒に暮らさないとか子供は持たないことがそれだったりするでしょう。
同性間でパートナーシップを組むことも、今ではそれほど奇異なことではなくなりました。
でも、でも、それは年代も性別も違う、いろいろなひとたちの「幸せ」とされる基準を無理やり平均化したものであって、それが必ずしも個々人にのそれとマッチするとは限らないのです。
違う言い方をすれば、世間(外部)でいうところの幸せや成功の基準と自分のそれと違ってもいいのです。むしろ、違って当たり前なのです。
周囲と全く同じだったら、私たちが同じ時に別々に存在している意味がなくなるのです。
ですが、日本では周囲との調和、周囲と同じであることがかなり重要な社会的基準(従わなければ社会的死がまっている)になっています。
ですから、他者と違うことがまるで罪であるかのような考えを持つ人がいますが、それこそが「違う」のです。
違う価値基準をもつ人たちと調和を保つこととは、違いの部分を無理やり同化すること、させることではありません。
互いの違いを理解したうえで、無理に合わせない、つきあわないことです。
お互いの個を尊重し、その存在を認め、自分と合わなければ距離を置くということです。
結婚はいつまでにすべきとか子供を産むなら(もつなら)いつまでがいいというのも、そう言った本人の考えであって、自分がそう思ってないならばそれに従うことはありません。
また、血縁者(親兄弟)同士、仲良くできば幸いですが、それを理由に絶対に仲良くしなくてはならないこともないのです。血縁者だからと言って一緒に暮らさなくてはならないことはありませんし、ずって世話をしなくてはならないわけでもありません。
もちろん、積極的にいがみ合えということではありませんが。
血縁者同士であっても、反りが合わないことは珍しくありません。
どうしても合わなければ、自分を守るために適度な距離を持ってもいいのです。
嫌いな人がいてもいいのです。
そう感じる自分を裁かなくても大丈夫だし、そういう自分を偽ることもないのです。
嫌い、苦手な方々と無理に関わろうとしなくていいのです。
関わらざるを得ないときには、大好きな人たちと同じくらい「深く」る必要なく、必要最低限にすればいいのです。そこに差をつけることは悪いこと、ひどいことでも何でもないのです。
それから、今まで仲良しだったひととこれからもずっと仲良しでいる保証はありませんし必要もありません。
時がたつにつれ、関係性が変化してご縁が遠くなったとしても、慌てなくても、がっかりすることはありません。
疎遠だった人と新たな展開になるかもしれませんし、全く新しい方と新しい関係もできるでしょう。
ひとさまが幸せかどうかを気にしないことです。
冒頭にもお話ししましたが、幸せの基準はひとぞれそれであってこちらから推し量ることはできないのですから。
小児以下でもない限り、援助を求められたときにだけ、そうすればいいのです。
つまり、自分を偽らないこと、自分の好きに、自由に生きることを怖がらなくてもいいのですよ、ということです(*´ω`*)
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